STORYストーリー

家族との“幸せ”な食の記憶。きっかけをくださった人たち。「自分がやりたいこと」に向き合い続け、いまお店につながっている。

  • 洋食KUCHIBUE
  • 坂田阿希子
  • (さかたあきこ)

料理研究家として雑誌や書籍、料理番組など多ジャンルで活躍する坂田阿希子さんは、2019年11月、洋食KUCHIBUEをオープンした。代官山の歴史ある建物、長く愛される飲食店があった特別な場所。洋食屋さんをやることを「運命に導かれたのかな」と語る坂田さんには、こどもの頃、家族で通った大好きな洋食屋さんの思い出がある。時間をかけて丁寧につくられた料理、老舗の洋食屋さんが醸し出す独特の雰囲気。自分が心から好きだと思う要素がつまった場所。「“幸せ”な思い出の象徴です」。坂田さんは、旅に出れば必ず洋食屋さんを探していた。個人的にレシピの研究も重ねていた。もし自分がお店をやるなら「洋食がいいな」と漠然と思っていた。でもまさか「本当にお店をはじめることになるなんて!」。そんな坂田さんのお店、洋食KUCHIBUEができるまでの話。

子どもの頃からずっと本が好き

子どもの頃は、将来、料理の仕事をすることになるとは思っていなくて、児童文学の作家になりたいと思っていました。放課後は友達と図書館に本を借りに行ったり、夏休みには自由研究で自作の本を作ったりしていました。頭の中で自分の世界をつくること、空想することがとても好きだった。「本が好き」ということは今も変わっていないですね。
料理の本を見るのも大好きでした。図書館でも小説や童話の他に料理本も必ず借りていたほどです。料理の写真をみていると どんな味なのかすごく興味が湧いてきて、母にお願いしては作ってもらったりして。私の家族はみんな食べることが大好き。お昼ごはんに「晩ごはんは何を食べる?」なんて話し合うような家族でした。父は美味しいお店、お気に入りのお店を見つけると、母、姉、私を連れて行ってくれました。中でも思い出がつまっているのが、近所にあった毎週のように家族で通った洋食屋さんです。わたしの子供のころからの一番思い出が強いレストランといえばここ。家族の記念日やお祝いごとは大抵この店で過ごしていました。料理はもちろん美味しいけれど、洋食屋さんが醸し出す独特の雰囲気がたまらなく好きだった。年季の入った飴色の椅子、白いテーブルクロス、壁にかけられた絵。目をつぶれば全部思い出せる。日曜に家族で外食するワクワクする感覚も。私にとって“幸せ”という言葉を象徴するような場所です。まさか、自分が将来、洋食屋さんをやるとは夢に思っていなかったけれど、“幸せ”のイメージが潜在的に刷り込まれていますね。

一生続けられることは「料理をすること」

10代の頃、英語を使う仕事に憧れて、大学は英文科に進みました。大学にすごく面白いスペイン語の先生がいたんです。土曜の午後になると、先生と友達がうちに集まる。先生が注文していた食材がスーパーから届いて、口頭でレシピを説明してくれるんです。みんなで料理していくと、どんどんスペイン料理ができあがっていく。それが、ものすごく美味しくて。食材から料理というものが生まれる楽しさ、元気になる力みたいなものを先生からは教わったような気がします。肝心のスペイン語はちっとも上達しませんでしたけど(笑)
大学を卒業して、子どもの頃から好きだった本に携わりたくて、出版社に就職しました。料理雑誌の編集の仕事です。ここではさまざまな経験ができました。料理家の先生とのご縁もできて、学ぶことも多く、楽しいこともたくさんあった。でも、何かが違う。自分と仕事が、うまくハマッていない感じがありました。なんでだろう?
これから一生、絶対に飽きない自信があること、それは料理をすることだ。それも、料理というものが写真に切り取られて、デザインされ、レシピを伝えるための本となる。つまりは「料理家」を目指したいと思うようになりました。それで、会社を辞めてしまいます。お金もなかったし、「なに勝手に辞めてるの!」と家族からは怒られましたけど(笑)

忙しく楽しかった修業時代

知り合いのつてを辿って、以前から本などで興味を持っていた料理家の先生に片っ端から電話をかけ、そのうちにアシスタントとして働くようになりました。でもそれだけでは生活ができない。料理の腕を磨くためにも、お店で働いて、お金をもらいながら、料理を学ぼうと思いました。お店では毎日同じクオリティーの料理を、同じスピードで提供することが求められます。プロとして、お客様からお金をいただく責任がある。あるクオリティーに到達するまでは認めてもらえないし、料理を任せてもらえません。料理学校で習うよりも厳しい環境になる。そうした逃げられない環境に身を置くことが、自分には合っていると思いました。
お菓子がやりたかったので、はじめはフランス菓子のお店に入りました。修業はとにかく厳しかった。未経験で、すべてがはじめて。朝も早くて重労働。でも本当に楽しかったんです。できなかったことができるようになることが楽しかった。お菓子づくりって工程がいくつもある。最初はやらせてもらえないし、やらせてもらえるようになってもなかなかできるようにはならない。仕事後に、周りの職人さんが練習につきあってくれて、何度も繰り返し練習しました。
そのうち温度の見極めや、道具の使い方のコツが、少しずつつかめるようになっていく。そして、すべてのタイミングが身体に入ったとき、ウソみたいにキレイなお菓子ができあがる。感動ですよね。一度そこに到達すると、二度と失敗しないんです。
お菓子作りって、絶対的な規則があって、ちょっとしたタイミングで全てが変わってしまいます。「ここに到達したかったんだ」ということが、自分の身体の感覚としてつかめたとき、こんなに楽しいことでお金をもらっていいのかな、と思うほど大きな喜びがありました。

料理に生命力があるということ

私は好きなことと嫌いなこと、興味のあることとそうでないことがハッキリしている。やりたいと思うことを見つけると、後先考えずそこに向かってしまうところがあります。でも結果的に、やってきたことが後になって活きてくる。
フランス菓子のお店の後は、当時、私がすごく憧れていた会員制のフレンチレストランで働くことになりました。何度も電話をかけてアルバイトから入り込んだんです。古い一軒家を改装してつくったレストランは独特な感性で作り上げられた空間で、料理もとても個性的だった。あんなお店はもう今はどこにもないと思います。ある意味ライフスタイルを提案していくサロンのような雰囲気があった。
一番の特徴は決められたメニューがないこと。毎朝シェフが「今日は何がいいかな?」と考えるところから1日がはじまります。いざメニューが決まると、全スタッフが大慌てで動き出して準備をしていく。瞬発力が求められました。ここの料理は決まりごとがないんです。庭のハーブを摘んでパッと散らすような、その日その時の感覚の料理。それが、すごく生命力があるんです。あとは、いつもこのお店ではお客様と同じ料理とワインでランチをする。これはすごく勉強になりました。そこで気がついたことや次のヒントになることがたくさんあった。今の私にもこの経験がとても活きています。それに、お客様がこの店の文化をつくっていると感じられたことも楽しかった。でも30歳が近づいて、そろそろ独立をしようと考えるようになりました。

私らしい料理のスタイルって?

お店で修業をしてきた人は、独立するときお店をはじめることが多い。でも私は飲食店での重労働を身にしみてわかっていたし、なりたいのはやっぱり料理研究家でした。でもなりたいと思ってすぐになれるわけではなく、体力温存と生活を維持するために平日は事務の仕事、週末は料理教室を開いていました。休みは全くなかったけれど、料理教室は今の仕事につながる第一歩だったと思っています。そのうちに編集時代の同僚から、ちょっとした料理企画にレシピを掲載してみないか、と声をかけてもらうようになりました。自分の料理が雑誌に掲載されるのは嬉しかったし、仕事には毎回全力で取り組んできました。でも、「私らしいスタイルって何なのだろう?」ということが、なかなか見つからなかった。

歴史ある場所を継いでいく

十数年が経ち、料理家としての仕事はだんだん忙しくなってきました。教室の生徒さんも増えて、今度は自分の拠点があったらいいなと思うようになりました。料理教室をメインに自分のスタジオを4年近く真剣に探して、かなりの件数の物件を見たけれど、なぜだかどうしてもピンとこない。ようやく表参道で見つかったと思った頃、知り合いから「代官山ヒルサイドテラスの伝説的な老舗が閉店するらしい。この場所を引き継ぐ人を探している」という話を聞きました。
大家さんの意志で、後を継げるのは飲食店と決まっていました。じゃあ私とは縁がないな、と。でもなぜか不意に「ここで誰かが洋食屋さんをやったらいいんじゃないかな」と思いついたんです。私が好きな老舗の洋食屋さんの雰囲気とは違うけど、素っ気ないギャラリーのような店内で、手間ひまかけてつくるクラシックな料理を出すのはいいなと。そんなことをポロッと口にしたら「それ絶対いい! あなたがやったらいいよ!」と。ちょうどそのとき、決まっていたはずの物件が水周りの工事の問題で頓挫してしまっていた。50年の歴史がある建物、窓いっぱいに広がる緑を見ながら、「私、やります!」と決断しました。

ドキッとするぐらい美味しい洋食を

もしも私がお店をやるなら、洋食がいいということは漠然と思っていました。姉ともよく話していたんです。洋食ならこのメニューは外せないよね、食器はこんな感じがいいよねと。個人的にもレシピの研究を重ねていました。デミグラスソースを1からつくったり、名店のマデラソースの味を再現してみたり。後はやるだけ。でもお店をやる厳しさはわかっている。実際、自分でつくってみてわかったことなんですけど、洋食は見えないところに時間と手間がかかっているんです。だから、新しく洋食屋さんをはじめる人ってほとんどいないですよね。
でも、それでもやると決めたのは、こんなタイミングで私に声がかかったのは、運命としか言いようがないと思ったから。46年間も続いた名店のあった場所を引き継ぐ、という責任があるように思えたし、ひとつの役割を課せられたような気持ちになったんです。今まで自分が料理研究家として積み上げてきたことを、ここでお客様に提供したらどんな反応があるだろうという興味もありました。
準備をしていくなかで決めたのは、なるべく全部自分で手作りするということ。たとえばコンビネーションサラダでも、ドレッシング、マヨネーズ、ひとつひとつ丁寧に手作りして、ドキッとするぐらい美味しいと思ってもらえる料理を出したいと思いました。

Airレジは友人の口コミで導入を決めました。私は管理業務が得意じゃないので、会計まわりもなるべく簡単にしたかった。Airレジは操作がとても簡単で、自動で売上集計されるから、税理士に提出する資料もすぐに出すことができます。機器がコンパクトなところもいいですね。スタッフの出勤管理にAirシフトを利用し始めてからは、シフト管理も、給与計算も劇的にラクになりました。管理業務の負荷が減ることで、料理にもっと集中できます。

軽やかに、口笛を吹きながら

お客様が美味しいと言ってくれる。スタッフが一生懸命に働いてくれる。そんな姿を見て、毎日感無量でした。今まで積み上げてきた、これだと思った料理をお客様に提供して、ダイレクトに反応してもらえる。平面だったものが立体になったような感覚。身体は疲れても、気持ちが高揚してしょうがない。
新型コロナの影響で飲食店を取り巻く環境は変わっています。営業をとめたくないので、テイクアウトをはじめたり、今まで出してこなかった料理にチャレンジしたり。気持ちをパッと切り替えて、目の前の状況に対応しています。私のアイデアに、お客様もスタッフもすぐに反応してくれる。それが嬉しい。自分がやりたいと思うことがあれば、まず飛び込んで、やれることに全力で打ち込んでみる。そうやって今まで生きてきたのだし、やりたいことをして楽しみながら、これからも道を切り拓いていきます。
店名のKUCHIBUEは、「人生を、口笛を吹きながら疾走する」という知人の言葉が気に入ってつけました。湖上の鴨みたいに、絶えず足で水を掻いている様子は見せず、スイスイと前に進んでいく。口笛を吹くように軽やかに。いつも爽やかな風が吹き抜けているようなお店にしていきたいと思っています。

  • 洋食KUCHIBUE
  • 東京都渋谷区猿楽町29-10 ヒルサイドテラスC棟15号
  • 03-5422-3028
※この記事は公開時点、または更新時点の情報を元に作成しています。

この記事を書いた人

執筆

羽生 貴志(はにゅう たかし) | ライター

ライター。株式会社コトノバ代表。「コトのバを言葉にする」をコンセプトに掲げ、いま現場で起きていることを、見て、感じることを大切に、インタビュー記事や理念の言語化など、言葉を紡ぐことを仕事にしています。

https://www.kotonoba.co.jp
撮影

前康輔(まえ こうすけ) | 写真家

写真家。高校時代から写真を撮り始め、主に雑誌、広告でポートレイトや旅の撮影などを手がける。 2021年には写真集「New過去」を発表。

前康輔 公式 HP http://kosukemae.net/