STORYストーリー
築100年の蔵を改装した喫茶店。ゆったりと心も体も癒やせる場所にしたい。
- 喫茶 時薬
- 後藤はるな
- (ごとうはるな)
北には八ヶ岳、南には富士山、西には南アルプスが一望できる山梨県北杜市に、喫茶 時薬(ときぐすり)がオープンしたのは2022年夏のこと。時薬は、築100年の蔵を改装して作られた喫茶店だ。店内に一歩足を踏み入れると、まるで昭和の時代にタイムスリップしたような感覚に包まれる。カチカチと時を刻む古時計、アンティークの家具や食器、レコードプレイヤーが回り、心地よく音楽が流れている。提供される料理は、オムライスやナポリタンなど昔ながらの洋食だ。「お客様から“懐かしい”という言葉を聞くと、お店を開いてよかったと思います」と語るのは、店主の後藤はるなさん。北杜市で生まれ育ち、「いつか自分の料理店を開きたい」という夢を、実家の裏手にある古い蔵を改装することで実現した。店名の“時薬”には、さまざまな悩みや疲れも“時間が癒してくれる”という意味がある。「この言葉は、私そのものを表していると思いました」という後藤さんに、お店ができるまでの道のりと、いま想うことについて話を聞いた。
古いモノに愛着を持って育ってきた
自然豊かな北杜市で生まれ、築100年の古民家で育ちました。両親ともアンティークを集めることが好きで、私自身、小さな頃から古いモノに愛着を持って育ってきました。父親は整備士で、壊れているものを修理することが得意。2014年には趣味が高じて、実家を改装しアンティークショップをはじめました。その裏手にある古い蔵で、私が喫茶店を始めたのは、これまでの経験が大きく影響しています。
私は思春期の頃、心の病の摂食障害を患いました。家族の協力を得ながら長い療養期間を過ごしました。その中で、自分の心と身体に正面から向き合うために「栄養や食事の重要性を学ぼう」と思ったこと。それが栄養士、調理師の免許を取得することになったきっかけです。元気を取り戻すには、長い長い時間がかかりました。でもそうした時間の経過が、少しずつ心を癒やしてくれました。だから私は“時間”というものにとても感謝をしています。
料理をすること、食べることが大好きに
学校を卒業し、ホテルや個人経営のフレンチレストランで働きました。お客様に料理を提供して「美味しい!」と言って喜んでいただく姿を見ているうちに、料理人になることが私の天職だと思うようになりました。“食”は私を最も苦しめたものです。でもだからこそ“食とは何か?”をとことん突きつめて考えていきました。その過程で「料理をすること」「食べること」の楽しさ、奥深さを知り、“食”が大好きになりました。“食”に苦しんだ私だからこそ、料理人として表現していけることもあるのではないか。そんな使命感もどこかにあるような気がしています。
個人経営のレストランで働いたとき、小さなお店ならではの近い距離感で、丁寧にコミュニケーションをしているシェフの姿に感銘を受けました。お客様もシェフとの会話を喜んでいるように見えました。私もそのシェフのように、お腹はもちろん、心も満たす料理人になりたい。その想いを全力で表現するために、何もかも自ら決めていく「自分のお店を開きたい」という想いが、どんどん大きくなっていきました。そんな話を父としていたらポロッと言われたんです。「あのお蔵でやればいいんじゃない?」と。
築100年の時間の重みがある蔵で
「え?あんな古いお蔵でできるわけないよ。飲食店だよ!」と思いましたが、“待てよ、よくよく考えたらいけるかも”と考え直しました。ひいおじいちゃんが100年前に建てたお蔵は、最近は物置状態でしたが、もともとは収穫した米などの穀物や、味噌を保存するための建物。温度の管理能力が高く、しっかりとした木造建築です。外観も美しい。大工さんにチェックしてもらっても「問題ない」と。そこから「このお蔵をどんなお店にできるだろう?」と考え始めました。
現実的な費用を考えれば、蔵を改装するよりも、すべて壊して新築したほうが安く済みます。でも日本古来の蔵造りによるこの蔵は、壊してしまえば同じものは作れません。ひいおじいちゃんの時代からの歴史が積み重なったこの蔵を残したい。「100年の時間の重みを活かすこと」「古いモノを大切にすること」をお店のコンセプトにしようと思いました。
店名に“時間が癒やしてくれる”という意味を込めた
「昔懐かしい喫茶店」を作ることに決め、蔵の内装や、店内に置くモノ、提供する料理を考えていきました。開店する前から多くの方にお店のことを知っていただきたかったので、クラウドファンディングでコンセプトを発信し、資金の一部を集めました。店名に決めた「時薬」は、いろいろな言葉を探している中で見つけた言葉です。“時間が癒やしてくれる”という言葉の持つ意味が、私の人生そのものを表していると思いました。このお店でゆっくりとした時間を過ごすことが、その人の癒やしになるような場所にしたい。心もお腹も満たして、幸せになってもらいたい。やりたいことがどんどん明確になっていきました。
クラウドファンディングをしてよかったことは、お店ができるまでのプロセスを、お客様に一緒にワクワクしながら待っていただく時間が作れたことです。古い蔵を改装する工事は決して簡単なことではなく、残したい部分と変えたい部分について、大工さんと何度も意見をぶつけあいながら、私が思い描く昔ながらの喫茶店をつくっていきました。父と私も手作りできる部分については自ら手を動かし、ステンドグラスや棚、部分的な塗装などを行いました。そうした工事の流れを写真とともにSNSで報告していきました。
きっとご先祖様も喜んでくれている
2022年8月、「喫茶 時薬」をオープンしました。お店が完成したときに思い浮かんだのは、亡くなった祖父と祖母の顔です。「あの古い蔵をこんなにキレイにしてくれてありがとう」と言ってくれているのではないかなと。この蔵を建てたひいおじいちゃんも、先祖代々のみんなも喜んでくれていたら嬉しいですね。蔵でお店を始めることを勧めてくれた父は、「小さな頃に怒られて閉じ込められた、暗くて怖い蔵がこんなステキになるとは」と喜んでくれました。
開店当初多かったお客様は、クラウドファンディングで支援をしてくださった方々です。お店ができるまでの過程をずっと見守ってくださっていたこともあり、完成した喫茶店を見て感動してくれたことが嬉しかったです。インスタグラムでの告知も積極的にしてきたので、地域のお客様や、北杜市に観光に来られたお客様、老若男女いろんな方にご来店いただいています。常連さんと会話をすることも増えて、昔ながらの喫茶店の雰囲気も色濃くなってきています。
お客様が長居してくれることが嬉しい
お蔵の外観と内観にいい意味でギャップがある。そこはこだわったポイントなので、お店に入ってきた瞬間に歓声があがったり、「わー、懐かしい」といった言葉をいただくと嬉しいですね。ゆったりとした時間を過ごしていただくことがコンセプトなので、お客様が長居してくださることも嬉しい。レコードで聴く音楽と時計の針の音。懐かしい洋食。お店で提供しているのはおうちでも食べられるような家庭料理です。ちょっと贅沢な気持ちで召し上がっていただけるよう、リッチ感をプラスしていることが料理人としてのこだわりです。食材も自家栽培の野菜や、地元産にこだわっています。
古いモノにこだわることがコンセプトなので、ガシャンという音や、アナログな操作音がお店の雰囲気に合う旧式のレジを使っていますが、決済に関しては、お客様の便利さを考えてキャッシュレスに対応できるAirペイを導入することにしました。何よりお客様に満足していただくことが第一です。クレジットカード、電子マネーなど、さまざまな決済手段に対応できるので、観光でいらっしゃるお客様にとっても安心感があるし、実際に多く利用されています。
やりたいことを実現していく拠点
生まれ育った地元で自分のお店をはじめたのは、他にも理由があります。子育て中なので、自分のペースで働くことを大事にしたかったこと。今はなかなか時間が取りにくいですが、菓子の販売や新しい料理の提供など、そのときどきの暮らしのスタイルに合わせて挑戦をしていきたい。そのためにも生活に根付いた場所で、自分自身でお店をやることが最善だと思いました。
そして何より北杜市に圧倒的な魅力があること。四季を肌で感じられ、自然豊かで、美味しい食材が豊富な土地です。意欲的な若い農家の方も増えて、地産地消ができる素晴らしい土壌です。お店の目の前にはわが家が代々受け継いだ2枚の田んぼと畑があり、今は父が米と野菜を育てています。お店ではそのお米と、朝採れの新鮮な野菜を提供しています。私自身も農業をやってみたい。そして自家栽培の「ここでしか食べられない料理」を提供する無二の料理人にもなりたい。やりたいことはいろいろ思い浮かんでいます。
- 喫茶 時薬
- 山梨県北杜市高根町五町田1094-1
- 0551-47-5022
この記事を書いた人
羽生 貴志(はにゅう たかし) | ライター
ライター。株式会社コトノバ代表。「コトのバを言葉にする」をコンセプトに掲げ、いま現場で起きていることを、見て、感じることを大切に、インタビュー記事や理念の言語化など、言葉を紡ぐことを仕事にしています。
https://www.kotonoba.co.jp前康輔(まえ こうすけ) | 写真家
写真家。高校時代から写真を撮り始め、主に雑誌、広告でポートレイトや旅の撮影などを手がける。 2021年には写真集「New過去」を発表。
前康輔 公式 HP http://kosukemae.net/