STORYストーリー

いつかは漢方相談のできる自分の薬局を。その夢と京都の老舗の承継がつながった。

  • 平井常榮堂薬局
  • 古川和香子
  • (ふるかわわかこ)

京都には100年以上続く商いや家業が、今なお多く残っている。創業1701年の平井常榮堂は、320年続く漢方薬局の老舗だ。しかし8代目の平井正一郎さんは2021年末に廃業することを決めていた。家業を継ぐ担い手がいなく、これまで通り事業を維持していくことが難しくなったからだ。平井さんの心残りは、長年通い続けてくれたお客様を困らせてしまうこと。漢方に関わる商品は特殊なものが多く、どこででも手に入るわけではない。“どうしようか”と頭を悩ませていたとき、お店にふらっと現れたのが古川和香子さんだ。歴史の重みを感じる建物、年季の入った箪笥や薬の道具を使っている平井常榮堂は、古川さんにとって「20代の頃からの憧れの場所」だった。でも老舗の風格に敷居の高さを感じ、20年近くも店内に足を踏み入れることができずにいた。40代半ばを過ぎてようやく“自分の理想の薬局を開く参考に”と思い、「勇気を出して飛び込んでみた」。その1週間後、古川さんは8代目から「平井常榮堂のお客様を引き継いでもらえないか?」と話を持ちかけられることになる。「急展開に驚きました」と振り返る古川さんに、漢方に興味を持ったきっかけ、平井常榮堂を承継することになった経緯、今の想いについて話を聞いた。

大学の授業で漢方の魅力に目覚める

小さな頃から今も変わらず、勉強が好きです。高校生の頃、数学や化学の実験が好きで、大学は理数系に進もうと思いました。薬学部を選んだのは2つの理由があります。まずは、母親からひとりでも生きていけるように「資格をとりなさい」と言われたこと。もうひとつは「人の役に立ちたい」という想い。小さいとき耳が悪く、病院に行く機会が多かったこともあり、わたしもお世話になってきた医療系の仕事に進みたいと思いました。

徳島大学の薬学部に進学し、いざ勉強がはじまると数学の難しさに愕然としました。物理学、薬理学、勉強する範囲が広く、覚えることも多くて必死についていく日々でした。そんななか、2年生のときに出会った“漢方”に衝撃を受け、その世界に一気にハマっていきました。たとえば風邪ひとつとっても症状は人によって異なります。漢方の臨床では、表面にあらわれた症状だけを見るのでなく、その根本にある原因まで考えて漢方薬を選びます。生薬学研究室に所属し、どんな症例にどのような漢方薬が効いたのか、具体的な事例を教えてもらう勉強会に夢中になりました。

いつか自分の漢方薬局を開きたい

薬剤師の国家資格を取得し、最初は漢方を取り扱う京都の診療所に就職をしました。お医者さんの決めた処方箋にしたがって漢方の調合をし、患者さんに説明する仕事です。その後、複数の病院や薬局を経験しながら、漢方のさまざまな流儀を勉強してきました。でも大学時代に思い描いたような、漢方相談を受けて、症状の原因を考えて、薬を販売していくような仕事はなかなかありませんでした。「いつか自分の漢方薬局を開きたいな」と漠然と考えながら、9年ほど京都で過ごしました。

日本の漢方と中国の漢方、それぞれの勉強を続けていくうちに、健康の維持には日常の食事が大切だと思うようになり、マクロビオティックに興味を持ちました。それで一度漢方の道を離れ、思い切って自然豊かな山梨へと引っ越しました。マクロビオティックは自然の恵みを命の糧に、健康的なライフスタイルを目指した食事法です。でも山梨で数年暮らす中で、食事だけで身体をよくすることには限界があると考えるようになりました。病気や体調不調には漢方が効果的なのだと改めて気がつきました。「また漢方の仕事に戻ろう。その前に、まだ知識が足りていない中国漢方を学び、好きなこの道を極めよう」と漢方の学校に通い、中国の資格「国際中医師」を取得しました。

夢を叶えるための行動をはじめる

2018年、9年の山梨暮らしの後、漢方を仕事にするなら馴染みのある京都がいいと思い、ここへまた戻ってきました。知人から紹介された漢方相談のできる薬局で働き、少しずつ経験を積んでいきました。好きな漢方の勉強は続けてきたし、資格も取って、若い頃より自信もつきました。年齢的にも40代半ばとなり、いよいよ自分のお店を持つという夢の実現に向けて行動をしなければと考えるようになりました。

でも具体的にどうすればいいのか、なかなか一歩が踏み出せない。そんなとき「世界文庫アカデミー」というカルチャースクールの“やりたいやりたいと思っているうちにすぐ10年が経つ”というメッセージが響いて、夢を叶えるための方法を身につけようと講座に通うことを決意しました。私の好きな「ミナ ペルホネン」の皆川明さんが講師に名を連ねていたという理由も大きいです。

開業に向けた第一歩を踏み出す

わたしの行動は、いつも“好き”が起点になっています。自分が開く漢方薬局も、好きなこと、やりたいことで満たしたい。そう考えたときに、20代の頃からお店の前をよく通っていて、歴史を重ねた老舗の店構えが素敵だなと、ずっと憧れを抱いていた平井常榮堂の店内を、しっかりこの目で確かめてみなければと思いました。勇気を出してお店に飛び込み、歴史の重みを感じる箪笥や道具や商品をじっくり眺めました。そして店主の平井さんとは、わたしが漢方にどのような想いを持ち、どのように向き合ってきたのか会話をしました。このとき平井さんが廃業を決めていて“お客様を困らせたくない”と考えていることを知りました。平井常榮堂は外観はもちろん、店内にも自分の理想とする薬屋さんの雰囲気が色濃くありました。昔からアンティーク家具など古いものが好きだったわたしにとって理想のお店でした。

1週間後、ふたたび平井常榮堂を訪れました。すると平井さんから「お店をはじめるなら、うちのお客さんと商品をお願いできんか?」と提案されました。まさかの展開です。でもわたしが引き継げば、お客様を困らせずに済み、平井さんの悩みも解決できるのだと気がつきました。「え、いいんですか?」と言いながら、心の中では即決です。平井常榮堂のお客様を継ぐことで平井さんの想いに応えるのと同時に、ずっと思い描いていた漢方薬局をはじめる絶好の機会だと思いました。このチャンスを逃すわけにはいかない。開業に向けた第一歩を踏み出すときがきました。

平井常榮堂の屋号を受け継ぐことに

ここまでは事業承継ではなく“わたしのお店”をつくる話。でも開業の相談で役所などに足を運ぶうちに、事業として継ぐなら補助金が出ることがわかりました。そのときに屋号は変わっても構わないとのこと。そうした話を平井さんに逐次報告しながら、京都府事業承継・引き継ぎ支援センターに相談をして、開業の準備を進めていくなかで、自分の薬局の屋号をどうするかを決めるタイミングがきました。

平井常榮堂の大切なお客様と商品を引き継ぐことは決まりましたが、旧店舗は平井さんの持ち物なので、わたしのお店は新しい場所で作ることになっていました。店舗名をどうするか、ずっと考え続けたのですが、ピンとくる名前が全然思いつかない。もともとの平井常榮堂のお客様からすれば、名前が変わることで足が遠のいてしまう可能性も考えました。それで「屋号を、わたしが継いだら、、ダメですかね?」とおそるおそる平井さんに聞いてみたんです。すると「え、逆にええんか?」と、あっさり許しがもらえて、正式に平井常榮堂の屋号を受け継ぐことが決まりました。そのついでに、平井常榮堂を初めて訪ねたとき一目惚れしていた、代々受け継がれてきた「あの素敵な箪笥もください!」とお願いすると「いいよ!」と。まるで夢のような展開です。

漢方独特の複雑な会計を確実にできるように

物件が見つかり、2021年11月にわたしが屋号を継いだ平井常榮堂は、新たな場所で再スタートを切ることになりました。平井さんにとって何より大事だったことは、長年のお客様を困らせないこと。オープン当初は毎日のようにお店に来てくれて、お客様のことや商品のことを教えてくれました。漢方は人によってお薬の量が違い値段が変わります。種類も多い。平井さんはそれを長年の経験で記憶していますが、私がゼロから覚えるのは無理があるし、金額を間違えてはいけないので、確実に会計ができるようにAirレジを導入しました。

商品名を全部登録しておけば間違えることはないし、過去のデータがすぐ参照できるので、お薬の量によって細かく異なる会計にも対応できます。また時代の流れに対応してキャッシュレス決済に対応できるAirペイも導入しました。昔ながらの雰囲気の漢方薬局なのに、こうした最新のシステムを使っていることで、“ギャップがあって面白い”とお客様に言われることもよくあります。

わたしの“好き”を叶える場所

漢方相談をして症状に合わせた漢方を販売する仕事がしたいという夢は、平井常榮堂の屋号を継ぎ、開業した薬局で叶えることができました。もうひとつ、私にはカフェを開きたいという夢がありました。薬草やハーブのお茶を提供しながら、交流を楽しむ場所が作りたかった。その夢はいま少し違った形で叶っています。漢方相談に来たお客様に、自家製の薬草茶をふるまいながら、雑談をする時間を通して願望が満たされているからです。雑談から、お客様の身体の大事なことがわかることも多いです。

320年の歴史がある老舗の屋号を継いだことで、たくさんの取材を受けました。もちろんその名前に恥じないような仕事をしていきたい。でもそんなに重苦しくは捉えていません。わたしが“好き”な漢方を、これからもずっと提供していく場として譲り受けたという感覚です。漢方薬局は、どこに行っても症状がよくならない方が、次に行く場所。「薬」という字は、“くさかんむり”に“らく”と書きます。薬草を使った治療は長い歴史の中で確立されてきたものだし、今でも求めている人がたくさんいる。その人たちが欲しいものを手に入れられず困ってしまわないように。平井常榮堂を大事に残していきたいし、わたしの“好き”な漢方の仕事を、ずっと続けていきたいと思っています。

  • 平井常榮堂薬局
  • 京都府京都市左京区高野西開町21-5
  • 075-741-8167
※この記事は公開時点、または更新時点の情報を元に作成しています。

この記事を書いた人

執筆

羽生 貴志(はにゅう たかし) | ライター

ライター。株式会社コトノバ代表。「コトのバを言葉にする」をコンセプトに掲げ、いま現場で起きていることを、見て、感じることを大切に、インタビュー記事や理念の言語化など、言葉を紡ぐことを仕事にしています。

https://www.kotonoba.co.jp
撮影

前康輔(まえ こうすけ) | 写真家

写真家。高校時代から写真を撮り始め、主に雑誌、広告でポートレイトや旅の撮影などを手がける。 2021年には写真集「New過去」を発表。

前康輔 公式 HP http://kosukemae.net/